2008年05月23日
赤瀬川が作った作品
この事件、本当に興味深いです。
当時、ハイレッド・センターの活動をしていた赤瀬川は、「オブジェとしての紙幣」に興味をいだき、1963年3月の読売アンデパンダン展に、千円札をルーペで詳細に観察し、自筆で丹念に、原寸の200倍の大きさに拡大模写した作品を発表した。
さらに過激なことをと、赤瀬川は同1963年に「千円札の印刷」を考え、「千円札をオモテだけ、一色で印刷してください」と2ヶ所の印刷所に依頼し、その印刷物を加工して作品として発表する。
発表された作品は「数十枚の千円札をコピーした紙を板にはり、何十個ものボルトを止めたもの」「数十枚の千円札をコピーした紙を『包み紙』とした梱包作品」「数十枚の千円札をコピーした紙に『切り取り線』をつけた作品」等であった。
捜査及び裁判
1964年1月に、赤瀬川は”自称・前衛芸術家”として、当時起きていたニセ札事件「チ37号」につながる、ニセ札容疑者として報道され、捜査を受ける。のち1965年11月に、印刷を行った各印刷所の社長2名とともに、通貨及証券模造取締法違反に問われて起訴され、裁判となる。
特別弁護人や弁護側証人には瀧口修造らの美術界の重鎮が名を連ね、話題となった。赤瀬川はあくまで、「千円札のニセモノ」としてでなく、「千円札の模型」として作品を製造したことを主張した。また、検察は「印刷所社長たちとの共謀」を主張したが、赤瀬川は二人と会ったこともなく、そのような事実はないと否定した。
また「千円札の模型」が芸術だという理解がない、裁判官に向けてアピールするため、高松次郎、中西夏之らが弁護人として「ハイレッド・センター」の活動について法廷で説明し、当時における「前衛芸術」について説明した。また、他の関係者の「前衛芸術」作品も裁判所内で多数陳列され、裁判所が美術館と化した。
「前衛芸術」と、パロディ的作品の意味が、法廷で争われる裁判となり、美術史上に残る裁判となった。
だが、1967年6月の東京地裁の一審で「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決をうける。また印刷所の社長2名も有罪となった(「伝達による共謀」という理由による)。
同年7月に、赤瀬川のみ東京高裁に控訴するが、1968年11月に「控訴棄却」される。そのためさらに、1969年1月に最高裁判所に上告するが、1970年4月に「上告拒否」され、有罪確定。
なお、この裁判の間、赤瀬川は作品として「零円札」などを制作した。
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- at 19:25